三重県建築士会 紀北支部より~地域紹介~
・紀北支部の地域
尾鷲市・紀北町・(熊野灘:リアス式海岸)
・自己PR
紀北支部長 宮原 良雄
みえ木造塾運営委員として10年間関わりながら、紀北支部では執行部として会員のご理解とご協力のもとで取りまとめをしています。
わたしの住む町は、地勢的に南北に細長い三重県の南部にあり、漁業・林業など第一次産業を中心とした紀北町です。必然的に地域との関わりは予想以上に密なものがあり、四季折々の歴史的・文化的なお祭りや行事を生活の中心に置く地域なのです。
わたしの職能の関わりだけでは、とても地域には受け入れられない生活がそこにあり、地域の暮らしや生活の中で、社会規範が形成・熟成されている。そこでは、「絆」でしっかりと結ばれた地域の営みが続いている。そのような東紀州地域をこよなく愛し、そこに生活している人達を大好きな『わたし』なのである。
・お勧めの町並み
紀北町紀伊長島区長島浦町(五十集(いさば)屋(や)通り)
新江の浦大橋(アルファ橋)中央に立ち、東を眺めると、国道42号線荷坂トンネルがかすかに見える。西には、真っ赤な江の浦橋(橋中央部が昇降式)やアイボリーカラーの町立西小学校屋内運動場(RC造2階建:わたしの設計)とその後方には、総ガラス張りの町民体育館と杉木目板コンクリート打放しの旧紀伊長島町役場庁舎(日本大学生産工学部・宗研究室設計)が見え、人工的な構造物の水平・垂直ラインとそのボリュームが周囲の景観となじんでいる。

北には、海と山に挟まれた平地の海岸沿いに細長い漁師の家並みが見える。
早速、前浜の岸壁に車を止め、まち並み散策に出発する。
すぐに狭隘(きょうあい)な路地(合い(あい)・世古(せこ):幅員3.5尺~6.0尺)に入ることになる。
家々の間口は1.5間~2.5間ほどで奥行きは5.0間~7.0間ほどである。
平入屋根、左右のケラバが隣地の上部に互いに重なり合い、高い建物の方が1尺ほど隣地を占拠している。平地の少ない漁師町の敷地を有効に使おうとする生活の知恵からできたものであるが、県の建築主事が、当地に赴任されたときの説明には大変な苦労をする。「民法236条による慣習に従うものなので、宜しくお願いします。」
そんな漁師町の中に五十集屋(いさばや)(いさば:魚加工問屋)通りという呼び名の通りがある。明治から大正時代まで、そこには、8軒ほどのいさば屋があり、戦後の全盛期の頃は、「魚まち」と呼ばれ、その通りの旦那衆のお金や手を掛けた家の造りは、明らかに漁師の住む家との違いが今でもよくわかる。
この「魚まち」界隈の歴史的、社会的、文化的に価値のあるまち並みを、地域の活性化につなげようと住民による『古道魚まち歩(ある)観(かん)会』が発足し活動が始まっており、わたしも会員の一人として活動に参加している。
(尺:303mm・間:6尺)

尾鷲市・紀北町・(熊野灘:リアス式海岸)
・自己PR
紀北支部長 宮原 良雄
みえ木造塾運営委員として10年間関わりながら、紀北支部では執行部として会員のご理解とご協力のもとで取りまとめをしています。
わたしの住む町は、地勢的に南北に細長い三重県の南部にあり、漁業・林業など第一次産業を中心とした紀北町です。必然的に地域との関わりは予想以上に密なものがあり、四季折々の歴史的・文化的なお祭りや行事を生活の中心に置く地域なのです。
わたしの職能の関わりだけでは、とても地域には受け入れられない生活がそこにあり、地域の暮らしや生活の中で、社会規範が形成・熟成されている。そこでは、「絆」でしっかりと結ばれた地域の営みが続いている。そのような東紀州地域をこよなく愛し、そこに生活している人達を大好きな『わたし』なのである。
・お勧めの町並み
紀北町紀伊長島区長島浦町(五十集(いさば)屋(や)通り)
新江の浦大橋(アルファ橋)中央に立ち、東を眺めると、国道42号線荷坂トンネルがかすかに見える。西には、真っ赤な江の浦橋(橋中央部が昇降式)やアイボリーカラーの町立西小学校屋内運動場(RC造2階建:わたしの設計)とその後方には、総ガラス張りの町民体育館と杉木目板コンクリート打放しの旧紀伊長島町役場庁舎(日本大学生産工学部・宗研究室設計)が見え、人工的な構造物の水平・垂直ラインとそのボリュームが周囲の景観となじんでいる。

北には、海と山に挟まれた平地の海岸沿いに細長い漁師の家並みが見える。
早速、前浜の岸壁に車を止め、まち並み散策に出発する。
すぐに狭隘(きょうあい)な路地(合い(あい)・世古(せこ):幅員3.5尺~6.0尺)に入ることになる。
家々の間口は1.5間~2.5間ほどで奥行きは5.0間~7.0間ほどである。
平入屋根、左右のケラバが隣地の上部に互いに重なり合い、高い建物の方が1尺ほど隣地を占拠している。平地の少ない漁師町の敷地を有効に使おうとする生活の知恵からできたものであるが、県の建築主事が、当地に赴任されたときの説明には大変な苦労をする。「民法236条による慣習に従うものなので、宜しくお願いします。」
そんな漁師町の中に五十集屋(いさばや)(いさば:魚加工問屋)通りという呼び名の通りがある。明治から大正時代まで、そこには、8軒ほどのいさば屋があり、戦後の全盛期の頃は、「魚まち」と呼ばれ、その通りの旦那衆のお金や手を掛けた家の造りは、明らかに漁師の住む家との違いが今でもよくわかる。
この「魚まち」界隈の歴史的、社会的、文化的に価値のあるまち並みを、地域の活性化につなげようと住民による『古道魚まち歩(ある)観(かん)会』が発足し活動が始まっており、わたしも会員の一人として活動に参加している。
(尺:303mm・間:6尺)
